昭和51年04月27日 朝の御理解



 御理解 第33節
 「お供え物とおかげは、つきものではないぞ。」

 いろいろとお取次を頂いてお願いをいたします。お願いをする事と、それが成就するとか成就しないと言う事と、お取次ぎを頂いてお供えをすると言う事とは、確かにお願いした通りのおかげを受けられると言う事ではない。又はお供えものを沢山したからと、言うて沢山のおかげを頂くと言う事でもない。お供えをしたけれどもおかげを頂ききれなかったと。けれども願ったおかげは頂けなくても、打ち込んでお供えをした事に対する神様のはたらきはある。
 ただ「つきものではない」というのは、目に見えて自分の思う通りのおかげが頂けるというのではないというのであって、神様はそれこそ「心を神様に向けてくれば、一足でも無駄にはさせん」と仰せられるのですから、決してあのう無駄ではないと。自分の願った通りのおかげを受けると言う事だけが、おかげではないと言う事であります。教祖様のご信心の歩みというものを、いろいろ分からして貰いますと、「今日は金を拾わす、お弁当を作って玉島の方へ、まぁ外へ出ろ」とこう言われる訳です。
 でお弁当をつくってと玉島の近所までおい出られた。もう昼頃昼近くになった、それで神様に「ここまで参りましたけれども、まぁお金は落ちておりませんでした」と神様に申し上げられますと、神様が「ここで弁当をつかえ」と仰る。ここでお昼を頂けという訳です。そして、「これから引き返して帰れ」と仰せられる。帰り道も矢張り見落としがあったのではないかという気持ちで、心捜しでおいでられたと思います。
 そう言う事は書いてありませんけど、残っておりませんけれども、「金を拾わす」と仰ったんだから、自分の見落としじゃないだろうかと。言った様な気持ちで、いうなら下を見ながらお帰りになったじゃなかろうかと思う,ところがとうとう帰られるまで一銭の金も拾われる事はなかった。神様に「ただ今帰りました」と言う事お届けをなさいますと、「今日の拾い物は」「今日はもうそれこそ数が読めない程しの拾い物をさせて頂きました」と答えられた。「拾うたものを数が読めんと言う事はなかろう」と。
 「確かにそうでございますけれども、日頃はここお結界に奉仕し抜かしてもろうて、いわゆる門外不出、一歩も外へでませんので。今日は神様の御言葉通りに外へ出さしてもろうて、いうならばよい運動が出来ました。久し振りにお天道様の、いうならばもとを外に歩かして頂いて、もうそれこそ今日は健康という命という拾い物をさせて頂きました」と仰せられたと言う事です。「お前は何でも良い方へよい方へとる、これからは神様がもう試さん」と言う様なお言葉があった言う事です。
 まぁいうならばお試しであっと。けれどもお試しとだけではない、本当に神様は外にも出させたい、運動もさせたいと言うお心ではなかったろうかと思います。「あなたが拾い物をさせる金を拾わすと仰るから、一日掛りで参りましたけれども、一銭も落ちておりませんでしたよ」と言う様な風にはいっておられないということ。それでそれは実感として今日は金ぐらいの事ではない、本当に命を色んなおかげを頂いたようで、久し振りに歩かして頂いて、弁当も美味しゅはなかったに違いはない。
 その事のお礼をまぁ申されたというのです。神様のいうならばお言葉の中にはね、それによく似た事が沢山お互いの信心生活の上にもございます。お伺いをする、「右にせよ左にせよ」と皆さんここでも頂かれる。ところが自分の思うようなおかげにはなっていないけれども、そうしたおかげで「はぁやっぱりあれはおかげじゃった」と思う様な事が沢山あるでしょうが。「親先生のお伺いして頂いたけれども、当たったりあたらじゃったりですよ」と言った様な頂き方ではない訳ですよ。
 よくよく注意させて頂きますとです。先日もそういう意味のことがある人がお願いをして、今日はお客さんがございます。珍しいお客さんが見える。それで何かご馳走を作っておかなければならぬ。それでそのご馳走の内容のことまで、お届けをして帰られた。昨日また午後参ってみえられて、そしてその時間にお客さんが見えられなくなった。電話が掛かって来て、せっかくご馳走料理を作っておって待っとられたけれども、来られんと言う事になった。
 その時に親先生が、「そんならそんな事がまあ色々お願いして神様にいろいろお伺いをして分かんなさるとじゃけんで、今日は作らんでもよかばい」というて頂きゃ胸がすうとした。ところがそんなら「お繰り合わせお願いしとこう」というて色々料理を作っとったけれどもとうとう見えなかった。「もう家で食べてしまおうち」言よる時に今度は別なお客さんが見えた。それも大事なお客さんであった。
 その人を待っておったかのようにお料理をそのまま出さして頂いて、はぁ「神様のおかげとはこういう事ばい」というてまぁお礼を申しあげましたと言うのです。そういう例はいくらもあります。「お供え物とおかげは付きものではない」と言う事。神様のいうならば「お知らせというか、お言葉とおかげは付き物ではない」、けれども神様のお言葉である以上はそれが分からない。まぁ教祖様の場合は全然分からない事だけれども、命を拾うたとお礼をいっとられる。
 昨日取次さして頂いたのははっきり形に、待っとるお客さんではなかったけれども、思いも掛けないお客さんがあって、しかも見えたからには饗応しなければならない処を、準備が出来ておったのでちょうど間に合うた。お繰り合わせを頂いた。神様の深い思し召しというのはどこまでも、解らんという風に頂けるのですけれども、お取次を頂いてお願いをしたけれども、いうならばおご馳走を作ったけれども、作り損だったと一時は思うような事があったけれども。
 その次にははぁ是を作っておいて良かったと言う事になった。だから問題はその時点で有り難く頂く心というものが、信心さして頂く者にはなからなければいけないと言う事です。お供え物とおかげは付き物ではない。神様のお言葉というならばおかげは付き物ではない。けれどもですお供え物、自分が思うとる通りのおかげではないと言う事であって、自分の思うとる通りのおかげが付いて来るというのじゃなくて、それこそ「一足でも神のご縁を受けてくりゃ一足でも無駄にはさせん」と仰せられるのですから。
 自分の思う通りにはなっていないけれども、それが目に見えない処で大変なおかげになっておると言う事があるというのです。お供え物をさせて頂いたから、自分の思うようになると言う事はないけれども、思う以上の形の上には分からなくても、おかげがあると言う事は、その時点を有り難く頂かなければならない。いうならば「頂きますという心あらば当たることなし」というお言葉がありますように、どういう答えがそこに出ておっても「それを頂きます」という心あらば、決して無駄にならないと言う事です。
 御理解が暫く中断する。
 明日は親教会の御大祭であります。春の。御本部に参拝させて頂くときは沢山のお初穂が集ります。ところが親教会の御大祭という時には、本当にもう気の毒なぐらいに少ない。親教会と御本部がそんなに違うと言う事があって良かろう筈はないのですけれども、御本部にはお供えをせして頂いても、何んかおかげを頂くように感ずる。別に手応えがある訳ではないだろうけれども、親教会のお初穂は、いうならば何ぁにもならぁんごたる気がするのではなかろうかと思います。
 お供え物とおかげは付き物ではない、手応えがないようにあってもね、お供えをさせて頂けばどこにかそれが、いわば一足でも無駄にはさせんと仰るのですから、親と子との関係にあるのですから、三井教会と合楽教会は。ですからこれはどうにも出来ない一つの関係です。そんなら矢張り子供が親に対する、信心はどうあらなれればならないかと言う事は、日頃稽古しておれば分からなければならないはず。まぁそれは努めてでも義理ににでもそれはよいと思う。
 そういう時がいうなら「お供え物とおかげは付き物ではない」と言う事になるかも知れませんけれども。今日は「つきものではない、けれども決して無駄にはならない」という、いうならば頂き方「神様頂きます」という頂き方、その辺のところを今日は聞いて頂きました。これは「お供え物とおかげは付き物ではない、どんどんお供えが出来る人はどんどんおかげを頂かなきゃならんけれども、そうではないと。
 ところがね、成る程願った事はおかげにならないけれどもです、どこにかおかげになる、どんどんお供えが出来ればやっぱりどこにか、どんどんおかげを頂く元があるように思います。ただお願いをした事がおかげにならん。目に見えなかったり感じなかったりすると、おかげがなかったようにあります。そこん処が付き物ではないのであって実際は、無駄ではないと言う事であります。年に春秋の大祭、夏と冬の祈願祭と報徳祭まぁ親教会につとめさして頂くのはこの四回のお祭りぐらいの事です。
 勿論私はつとめさして頂きます。そんならやはり私の信心に繋がる、ご信者方も繋がっていかなければならんのではないかと思います。いくらお供えしてもせいがない。そう言う様な考え方でなくて、成る程おかげは頂かんかも知れんけれども、今日は本当に、いうならば命を頂いたと、教祖様が仰っておられるように、目には見えないけれどもね。
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